歴史
島津の退き口(しまづののきぐち)
関ケ原(せきがはら)の戦(たたか)いで西軍(せいぐん)についた島津義弘(しまづよしひろ)

関ケ原合戦で戦った島津義弘(しまずよしひろ)と豊久(とよひさ)
※市郷土館所蔵の関ケ原合戦図屏風(複製)より
慶長(けいちょう)5年(1600年)に起きた関ケ原の戦いで島津義弘は、1500の兵力(へいりょく)で参戦(さんせん)。様々な事情(じじょう)により西軍・石田三成(いしだみつなり)に加勢(かせい)しました。
この決断(けつだん)が、島津隊(しまづたい)の運命を変(か)えます。
敵(てき)の意表を突(つ)く「敵中突破(てきちゅうとっぱ)」

敵中突破(てきちゅうとっぱ)を試みた島津義弘(しまづよしひろ)
関ケ原の戦いで東軍(とうぐん)・徳川家康(とくがわいえやす)の勝利(しょうり)が濃厚(のうこう)になると、島津隊は、正面の敵に向かって退却(たいきゃく)するという「敵中突破」を試(こころ)みました。
これは、「伊勢街道(いせかいどう)」を通るためであり、島津の誇(ほこ)りを守るため、後方へ逃(に)げることはしないためとも言われています。
味方を逃(に)がす戦法(せんぽう)「捨(す)てがまり」

烏頭坂(うとうざか)にある豊久(とよひさ)の顕彰碑(けんしょうひ)

豊久の墓(はか)がある上多良(かみたら)の瑠璃光寺(るりこうじ)
退却(たいきゃく)する時、島津隊(しまづたい)は東軍(とうぐん)から追撃(ついげき)を受けました。
そこで大将(たいしょう)の島津義弘(しまづよしひろ)を逃がすため、数名で押(お)し寄(よ)せる敵(てき)と死ぬまで戦(たたか)って足止めする「捨てがまり」という戦法をとりました。
その戦法により、義弘の甥(おい)である島津豊久(しまづとよひさ)も死んでしまいました。当時30歳(さい)でした。
現在(げんざい)、牧田地区(まきだちく)の烏頭坂(うとうざか)には豊久の顕彰碑(けんしょうひ)、上多良地区(かみたらちく)には豊久の墓(はか)があります。
「島津の退(の)き口」ルート

島津の退き口ルート
島津隊は、笹尾山(ささおやま)のふもとから「敵中突破(てきちゅうとっぱ)」を試(こころ)みると、上石津地内(かみいしづちない)の、牧田、一之瀬(いちのせ)、多良、時山(ときやま)をひた走り、近江(おうみ)の高宮付近(現在の滋賀県彦根市高宮町(しがけんひこねしたかみやちょう))へ抜(ぬ)けました。


















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