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大垣の先賢(せんけん)

梁川星巌(やながわ せいがん)

梁川星巌(やながわ せいがん)

星巌は、寛政(かんせい)元年(1789)、現在の大垣市曽根町に生まれました。

星巌の家に近くには、太随和尚(たいずいおしょう)が務める、「華渓寺(かけいじ)」というお寺がありました。星巌が7歳になるころには、そこで歴史・詩文・書道などを熱心に学び、みるみる星巌の学力は向上しました。

星巌は12歳のとき、とつぜんに両親を亡くしてしまいました。星巌の家は華渓寺の南に広い屋敷(やしき)と5つの蔵(くら)を持つ立派な家で、星巌は年わかくして当主となってしまったのです。
※当主…家の主人であり、一家をまとめる者

星巌は当主で家を守らなければいけませんでしたが、江戸で多くの人と交わり学問をより高めたいという情熱(じょうねつ)がなくなることはありませんでした。

そして、星巌が19歳になったとき、和尚さんの後押しもあり、江戸で学問をできる夢がかないました。星巌は、好きなだけ勉強できることがうれしく、昼夜を問わず学問にはげみ、学力がみるみる向上していきました。

しかし、星巌は自分を後押ししてくれた和尚さんのことを忘れ、江戸で遊んで暮らすようになり、たくさんの借金を作ってしまいました。

多くの借金を作ってしまった星巌は、和尚さんにおわびの手紙を送り、お金を送ってもらい借金を返しました。

文化6年(1809)に星巌は大垣に戻り、和尚のあとをついで塾(じゅく)の先生となりました。しかし、翌年(よくねん)これまで星巌を助け守り続けてくれた和尚さんが亡くなってしまいました。

その後、星巌は再び学問にはげむため江戸に向かいました。星巌は、遊ぶことなく勉強に打ち込みました。そして、文化14年(1817)に曽根に帰り、私塾(しじゅく)「梨花村草舎(りかそんそうしゃ)を作り、子どもたちに習字や漢文を教えました。

塾の中に景(けい)という才能(さいのう)あふれる女の子がいました。星巌は32歳のとき、景(後の紅蘭[こうらん])と結婚(けっこん)しました。

その後、2人は詩を作りながら岡山、下関、長崎へと旅をしました。この旅で星巌の名声は世間に広まっていきました。

約1,500日の旅を終えた後、星巌は京都で生活をし、彦根、江戸と移り住み、神田に「玉池吟社(ぎょくちぎんしゃ)」という詩の塾を開きました。星巌は、ここで日本を動かす原動力となる人物と交わりました。

その後、星巌は、詩人としての名声だけでなく、政治的な情熱をもった勤王(きんのう)の志士(しし)となっていきました。

梁川星巌(やながわ せいがん)

構成(こうせい)・作画/渡辺浩行(わたなべ ひろゆき)
監修(かんしゅう)/清水 進(しみず すすむ)

梁川星巌を紹介(しょうかい)しているマンガは、図書館で借りることができるので、くわしく調べてみよう。


目次 
-大垣の先賢(せんけん)-
江馬蘭斎 飯沼慾斎 梁川星巌
江馬細香 小原鉄心