トップページ > 大垣の先賢(せんけん) > 飯沼慾斎(いいぬま よくさい)

大垣の先賢(せんけん)

飯沼慾斎(いいぬま よくさい)

飯沼慾斎(いいぬま よくさい)

慾斎は、天明(てんめい)3年(1783)に伊勢亀山(いせかめやま)で生まれました。
※伊勢亀山…現在の三重県亀山市(みえけんかめやまし)

慾斎が6歳のとき、世の中は飢饉(ききん)のなごりが残り、人々の苦しい生活は続いていました。慾斎は苦しむ人々を見て、みんなを助けるために医学を勉強したいと思うようになりました。
※飢饉…異常気象などによって農作物がとれないことなどから食べ物が不足すること

12歳のとき、母親の実家がある大垣の飯沼家で学問を学ぶことをゆるしてもらいました。
叔父(おじ)である飯沼長顕(いいぬまちょうけん)は、大垣の俵町で町医者をしていたので、慾斎は、ここで家事を手伝いながら勉強にはげみ、漢文学や医学を学びました。

慾斎は22歳のとき、長顕の長女・志保(しほ)と結婚(けっこん)しました。

それから間もなくして、小野蘭山(おのらんざん)の門人となり本草学を学びました。その後も京都で漢方医学を学ぶなど、ひとりでも多くの命を救うため、一心に勉強を続けました。
※門人…先生について教えを受ける人
※本草学…薬用に重点を置き、植物などを研究する中国の学問

京都から帰った慾斎は、長顕から医者として飯沼家を引きつぎ、病人の治療(ちりょう)にあたりました。どんな人にもやさしい慾斎は、まちで評判(ひょうばん)の医者となりました。

当時、主流だった東洋医学も、時代の変化とともに西洋医学に変わりつつありました。
東洋医学の医者をしていた慾斎も、実際に患者(かんじゃ)の病気や様子を調べてから治療する西洋医学を江戸で学びたいと思うようになりました。

しかし、慾斎に江戸で西洋医学を学ぶだけのお金もなく、妻と小さな子どももいるため、家を留守にすることはできませんでした。しかし、家族の支えもあり、わずか1年でしたが江戸で西洋医学を一生けんめいに学ぶことができました。

江戸から帰ってきた慾斎は、俵町で西洋医学の医者として再出発しました。すると、評判はすぐ広まり、たくさんの患者がおとずれるようになりました。しかし、町医者である慾斎の人気を良く思わない医者もあらわれました。

慾斎は、医者として人の体を知るために、本ではなく実際に見て知ることが重要だと考え、罪人の死体を解剖(かいぼう)する機会をもらいました。

このころ、人体の解剖は全国的にみて決して新しいことではありませんでしたが、美濃地方(みのちほう)では慾斎が初めてでした。人々は、慾斎がやることや考え方を理解することができず、慾斎の悪口を言い、慾斎は大変つらい思いをしました。

これをきっかけにやる気を失ってしまった慾斎は、引退して平林荘(へいりんそう)という別荘(べっそう)でゆっくりとした生活を数年間送りました。しかし、慾斎はあるとき「自分は人々を助けるために医学や本草学を学んできたのではないか」という気持ちに気づきました。

それから慾斎は、我(われ)をわすれて植物研究に打ち込み、植物採集や多くの標本を作りました。

慾斎は、日本で初めて顕微鏡(けんびきょう)を使い細かい植物の解剖図をえがき、草の種類1200、木の種類600を「草木図説(そうもくずせつ)」にあらわしました。これが日本で初めての植物図鑑となりました。

飯沼慾斎(いいぬま よくさい)

構成(こうせい)・作画/渡辺浩行(わたなべ ひろゆき)
監修(かんしゅう)/清水 進(しみず すすむ)

飯沼慾斎を紹介(しょうかい)しているマンガは、図書館で借りることができるので、くわしく調べてみよう。


目次 
-大垣の先賢(せんけん)-
江馬蘭斎 飯沼慾斎 梁川星巌
江馬細香 小原鉄心