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大垣の先賢(せんけん)

小原鉄心(おはら てっしん)

小原鉄心(おはら てっしん)

文化14年(1817)、鉄心は大垣藩士である小原忠行(おはらただゆき)の長男として生まれ、26歳で家をつぎました。

天保(てんぽう)14年(1843)、鉄心は江戸の梁川星巌(やながわせいがん)をたずね、これからの時代は、日本国として世界に目を向けなければいけないことを教わりました。

この頃、大垣藩は度重なる洪水(こうずい)でたくさんの借金をかかえ、人々は苦しい生活を送っていました。

そこで鉄心は、藩主から藩の財政(ざいせい)の立て直しと人々を苦しい生活から救うように命じられました。
※藩主…藩のとのさま
※財政…人々から集めたお米やお金をもとに人々の生活を良くする活動

鉄心は、人々のおなかを空かして苦しむ様子を見て、自分の家の宝(たから)をお金にかえて藩にわたしました。

鉄心は改革(かいかく)を行うため3つの考えを出しました。やがて、鉄心の改革は成功し、安政2年(1855)に藩の財政を立て直すことができました。
※改革…仕組みを変えて良くすること

その後、世の中は外国人を追い出そうとする動きになりました。そして、外国に対する弱気な幕府への不満は大きくなっていきました。

そこで、幕府の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、政権を朝廷に返して、幕府への不満を取りのぞこうとしましたが、新政府側は、朝廷内での地位と領地(りょうち)を返すように命令しました。
※政権…政治を行う権力
※朝廷…天皇が政治を行うところ
※新政府…幕府をたおし、天皇中心の政治を行おうとする人々の集まり

これに納得(なっとく)できない幕府軍は、力づくで新政府側から政権をうばおうと京へ向かいました。この中には、鉄心の子、小原忠迪(おはらただみち)もいまいした。

これを知った鉄心は、家来を忠迪のところへ向かわせ、戦を止めるよう伝えました。

しかし、忠迪は鉄心の命令を聞きいれることなく戦は始まりました。鉄心は、大垣藩が朝廷の敵(てき)であるとみなされることを心配しました。

鉄心は、大垣藩の生き残りをかけた重大な話し合いで、今はもっと大きな視野でものを見ることの大切さを語りました。

話し合いの結果、大垣藩が朝廷側の味方になることでまとまりました。

その後、大垣藩は新政府軍として戦に加わりました。

明治元年(1868)、大垣藩兵が幕府軍をたおし大垣に帰ってきました。
鉄心はその後、新政府のもとで財政の仕事をまかされました。

小原鉄心(おはら てっしん)

構成(こうせい)・作画/渡辺浩行(わたなべ ひろゆき)
監修(かんしゅう)/清水 進(しみず すすむ)

小原鉄心を紹介(しょうかい)しているマンガは、図書館で借りることができるので、くわしく調べてみよう。


目次 
-大垣の先賢(せんけん)-
江馬蘭斎 飯沼慾斎 梁川星巌
江馬細香 小原鉄心